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  • 羽山信宏のつれづれなる風土産業記 その7

    諏訪・岡谷の地を訪ねて

    2026年5月、新緑が美しい季節、私は風土産業研究所の仲間である武田さんとともに、ものづくりのDNAが脈々と受け継がれる長野県岡谷市、そして諏訪市を訪問した。地域に眠る気候風土、歴史、そして人々の情熱をいかにして現代の、そして未来の「風土産業」へと昇華させるか。対話と発見に満ちた、極めて濃密な経験であった。

    岡谷の未来を紡ぐ:「岡谷たる産業を考える」ワークショップの熱気

    今回の最大の目的地は、岡谷市役所で始まったひとつの熱い企ての実践であった。

    かねてより岡谷市工業振興課の真田課長、石黒さん、そして岡谷市の産業大使でもある武田さんと私の4人で、「岡谷のさらなる発展と活性化のために、我々ができることは何か」と知恵を絞り、計画を立案してきた。それが、「岡谷たる産業を考える」ワークショップである。当日は、地域の産業界、行政、経済団体、金融機関、そして教育機関など、多様なバックグラウンドを持つステークホルダー30名が一堂に会した。

    状況が人を働かす共育から始まる風土産業

    冒頭、私から参加者の皆様へ、風土産業に寄せる切なる思いをお話しさせていただいた。

    そして、「環境や状況こそが人を動かし、働かせる。だからこそ、地域の未来の目標を『共有』し、共に育む『共育(ともいく)』の姿勢が不可欠である」

    グループ討議に入ると、会場の熱量は一気に高まったと感じました。参加者からは、

    • 「多様な視点に触れることができた」
    • 「立場を超えたフラットな対話が心地よかった」

    といった高い満足度の声が聞かれた。一方で、「もっと話し合う時間が欲しかった」「一過性のイベントで終わらせず、次にどう繋げるかのロードマップが見たい」という、前向きかつ切実な要望も飛び交った。メンバー集めに奔走してくださった岡谷市工業振興課の皆様には、心から感謝を申し上げたい。この「出会いと気づきの場」を起点に、今後の風土産業活動へどう着地させていくか、我々の真価が問われるのはこれからである。

    待つ技術から、攻める指導へ:長野県工業技術技術総合センターへの提言

    石黒さんのご配慮により、地域の技術革新の要である「長野県工業技術総合センター精密・電子技術部門」を視察する機会に恵まれた。

    センターに一歩足を踏み入れて驚いたのは、工学技術や品質技術など、あらゆる分野の実験解析を極めて高いレベルで実行できる素晴らしい設備環境、そしてそこで機能する技術者の方々の卓越した専門性であった。依頼試験や技術相談、設備利用のスケジュールはほぼ満杯であり、技術者の皆様が日々多忙を極めている姿が印象的であった。

    「認知の壁」を破るアクティブ・アプローチ

    しかし同時に、これほど強力なアセット(設備・人材)がありながら、地域の企業にその存在や実力が十分に知れ渡っていないという「認知の課題」も浮き彫りになった。センター側も「もっと宣伝が必要だ」という認識をお持ちであった。

    そこで私は、単に広報を強化して「相談を待つ」という従来の手法に留まらず、一歩踏み込んだ提案をさせていただいた。技術者自らが積極的に地域の企業へと足を運び、現場の潜在的な「困りごと」を掘り起こす。これこそが、風土に根差した中小企業を救う、真のアクティブな技術指導(実践研究)に繋がるのではないだろうか。

    丸高蔵の歴史に「学びの場」を:宮坂平馬氏の大きな構想に寄せて

    ご縁があり、諏訪の地に移動し、高島藩の御用酒屋をルーツに持ち、近代は「神州一味噌」の醸造を担ってきた象徴的な場所、「丸高蔵」を訪ねた。現在は、この歴史的土地建物を活用して株式会社「味百味」を経営されている宮坂平馬氏にお話を伺い、広大な蔵の内部をご案内いただいた。広大な敷地に佇むいくつもの蔵は、圧倒的な歴史の深さを醸し出す一方で、「古くなった建物や設備を現代にどう生かすか」という重い課題も突きつけてくる。宮坂氏が掲げる「諏方圏経済の自立性、地産地消、自給自足」という壮大なグランドデザインに触れ、深い感銘を受けた。

    歴史の空間を、子どもたちのエネルギーで満たす

    この地を見学しながら、私の脳裏にひとつの情景が浮かんだ。

    これほど深く、広い歴史の空間であるならば、ここを子どもたちが自由に考え、五感を使って遊ぶことができる「学びの場(共育の場)」にしてはどうか、ということだ。

    自然豊かな環境、そして先人たちが築いた歴史と文化に直接触れることで、次世代の郷土愛と創造力が育まれる。宮坂氏が目指す大きな構想への「第一歩」として、このような原体験の場を作るお手伝いができればと、胸が熱くなった。

    神話と歴史が身近になる瞬間:SUWAエクスペリエンス・林聡一さんの導き

    旅の締めくくりは、諏訪信仰の核心へと迫る時間となった。案内役は、観光案内の専門家であり、我らが風土産業研究所の仲間でもある「SUWAエクスペリエンス」代表・林聡一さん。林さんのナビゲートのもと、諏訪大社上社本宮、上社前宮、そして神長官守矢資料館を巡った。
    参考:SUWAエクスペリエンス | 諏訪の信仰と文化を案内するガイド会社

    専門家の「語り」が、風景に命を吹き込む

    もし林さんの解説がなかったら、私はただ「歴史ある神社を参拝した」という表面的な満足だけで通り過ぎていただろう。しかし、林さんの口から語られる諏訪大社の歴史、土着の神話、「特殊神事」と呼ばれる神事や「天下の大祭」とも言われる行事の本当のいわれ、そして神長官の果たしてきた役割を聞くうちに、点と点だった知識が繋がり、諏訪大社という存在がいきなり私自身の身近なものとして立ち現れてきた。

    諏訪全体の成り立ちと人々の営みの繋がりを、おぼろげながらも明確に脳裏に描くことができたのは、ひとえに彼の卓越したガイドの賜物である。

    あらためて、「地域にいる専門家の力を、もっと社会や産業に活かすにはどうすればいいか?」という、心地よい宿題を突きつけられた一日となった。林聡一さん、最高のナビゲートを本当にありがとうございました。

    結びにかえて

    岡谷・諏訪を巡る旅で確信したのは、この地域には「状況が人を働かす」ための最高の土壌(気候風土、技術、歴史、そしてリーダーたち)がすでに揃っているということだ。

    ワークショップで火がついた多様なステークホルダーの熱い思いを一過性で終わらせないために。そして、長野県工業技術センターの高度な技術や、丸高蔵のような歴史的遺産を次の時代へ繋ぐために。

    私たち風土産業研究所は、これからも地域の方々と「目標を共有」し、「共育」の伴走者として実践を続けていく。

  • 羽山信宏のつれづれなる風土産業記 その6

    備後絣 —伝統の「糸口」から紡ぐ新たな価値—

    訪問の背景と目的

    2026年3月、風土産業研究所の仲間である武田さんとともに、広島県福山市神辺(かんなべ)を訪れた。今回の目的は、武田さんの知人であり、現地で花﨑リボン株式会社を経営されている花﨑吉隆さんにお会いすることである。繊維の街として知られる福山の地で、日本三大絣の一つである「備後絣(びんごがすり)」の歴史や現状、そして未来への思いを伺うべく、実りある対話の時間を設けていただいた。

    福山の風土が育んだ繊維の歴史

    花﨑さんのご案内のもと、新装された「福山城」と「福山市しんいち歴史民俗博物館」を巡り、この地に根差す産業のディープな足跡を辿った。

    福山城で知る「イ草」と「綿作」のルーツ

    福山城のパノラマビジョンは、古代から現代にいたる街の変遷をダイナミックに伝えてくれた。

    • 地理的背景: 古代、現在の福山市中心部のほとんどは海の中であり、瀬戸内海の「潮待ちの港」として鞆の浦(とものうら)が栄えていた。
    • 水野勝成の功績: 江戸時代、初代藩主・水野勝成は、この地の特性を見抜いて「イ草」の育成を奨励・保護。これが後に「備後畳表」として日本全国へ流通する一大ブランドとなった。
    • 綿作の広がり: 同時に勝成は綿作も奨励。これが農家の副業として定着し、のちの繊維産業の強固な土台(綿作・綿布)となった。

    しんいち歴史民俗博物館で見る「備後絣」の栄枯盛衰

    福山市北部の主要産業であり、現代の繊維産業の礎となったのが「備後絣」である。

    • 誕生: 江戸時代末期、芦田町の富田久三郎が考案。
    • 全盛期: 昭和30年(1955年)には、国内の絣生産量の実に70%を占めるまでに成長した。
    • 現在: 博物館では、職人たちの精緻な生産プロセスや多種多様な絣の模様が展示されており、現在は地域の方々と一体となった保存活動が進められている。

    現代のモノづくり現場:花﨑リボン(株)の挑戦

    今回お話を伺った花﨑さんは、小物や衣料に欠かせない「リボン」を編む工場を経営されている。現代の製造業が直面するリアルな実態について、大変興味深いお話を伺うことができた。

    【花﨑社長のお話から】

    リボンは最終製品(完成品)ではないため、トレンドや顧客のニーズに合わせて非常に多くの種類(多品種)が必要となる。そのため、同じものを大量に生産すればよいという時代ではない。しかし、それでも「本物のクオリティ」を求める確固たる生産依頼が今もしっかりと届いている。

    この言葉からは、時代の変化に柔軟適応しながらも、福山の繊維技術の底力を守り続ける誇りと実直さが伝わってきた。

    総括と考察:歴史を「保存」から「未来」へ

    今回の福山訪問は限られた時間であり、備後絣の膨大な情報や、実際の生産現場のすべてに触れるまでには至らなかった。その点は一抹の心残りである。

    かつて国内有数のシェアを誇り、誰もが一度はその名を耳にしたことがある「備後絣」。しかし、現代においてそれが博物館のなかの“保存されるもの(過去の遺産)”の仲間入りをしてしまっているように感じられたことは、産業の未来を考える身として少し寂しく、危機感を覚える部分でもあった。

    しかし、落胆しているだけでは始まらない。

    「温故知新(旧きをたずねて新しきを知る)」

    集約された職人の手技、藍染めの風合い、そして花﨑リボンさんのような現代の編織技術。これらを掛け合わせることで、現代のライフスタイルに響く「新しい価値」を作り出せる糸口が必ずどこかにあるはずだ。手元にある備後絣の資料をそっと眺めながら、その「糸口」をどう手繰り寄せるか、今も思考を巡らせている。

  • 羽山信宏のつれづれなる風土産業記 その5

     〜会津・喜多方、水と誇りの街をゆく〜

    会津・喜多方へ

    2026年4月、風土産業研究所の仲間である小澤さん、武田さんと一緒に会津・喜多方を訪ねた。小澤理事が福島でどれほど深く復興と地域創生に命を吹き込んでいるか、その活動の現場にこの目で触れるための視察である。

    郡山から車を走らせて喜多方へ向かう道中、いきなり心を奪われた。峠を越えるときに目に飛び込んできた、まさに満開の桜!磐梯山の麓をぐるりと巡っていくと、表磐梯と裏磐梯でまったく表情の違う荒々しくも美しい自然が代わる代わる現れた。そして目の前にどんと広がる檜原湖の吸い込まれそうなほどの雄大さ。ただ移動しているだけなのに、この土地の持つ圧倒的なエネルギーに早くも圧倒されてしまった。

    彌右衛門さんとの出会い

    喜多方市に着いてすぐにお会いしたのが、大和川酒蔵の会長であり、会津電力の特別顧問、会津エナジーの代表取締役でもある佐藤彌右衛門さんだ。彌右衛門さんは、私たちが到着するやいなや「まずはここへ行こう」と、“満天テラス”という場所へ連れて行ってくれた。

    テラスに立つと言葉を失った。喜多方市の東側にある小高い山麓に位置するその窓からは、会津盆地が文字通り一望できるのだ。西側の正面には喜多方市、目を少し北に向ければ、4月だというのにまだ真っ白な雪をどっさりと抱いた飯豊連峰がそびえ立ち、左を見れば会津若松市の街並みが遠くまで見渡せる。

    その絶景を背に、彌右衛門さんが開口一番、こう言った。

    「会津は本当に素晴らしいところです」

    その声のトーン、表情、みなぎる自信。私は言葉にできないほどの強い感動を覚えた。そしてその発言されたときの姿・景色が脳裏に焼き付いて離れなくなった。自分の故郷に、自分が暮らす地域に、これほどの誇りを持てる人がどれだけいるだろう。これだ、この圧倒的な誇りこそが、彌右衛門さんを突き動かすエネルギーの源なんだと理解した。彌右衛門さんの話は、この素晴らしい会津の「地形と水」へと繋がっていく。「会津は水の豊かなところです。阿賀川・阿賀野川水系があり、さらに東には猪苗代湖がある。そしてね、猪苗代湖と、いま目の前に見えている会津盆地には、実に280メートル以上もの標高差があるんですよ。この落差は、ものすごいエネルギーを生むのです」

    そう熱弁する彌右衛門さんの言葉を聞きながら、さっき車窓から眺めてきた景色と、いま目の前に広がる大パノラマをもう一度思い返した。「なるほど、その通りだ……!」と、身体の芯から納得がいくような感覚だった。

    会津・喜多方の挑戦

    壮大な挑戦のきっかけは、あの福島第一原子力発電所の事故だったという 。「もう一度、自分たちの福島、そして会津のエネルギーのあり方を根底から考え直さなきゃいけない」、そこからすべてが始まった 。 地元で泥臭くシンポジウムや勉強会を何度も何度も繰り返し、ただの理念ではなく「会津の水」を本気で地域発展と活性化のブースターにするための活動へ泥臭く発展させていったのだ。その執念が形になり、彌右衛門さんが中心となって2013年に会津電力を、2020年には会津エナジーを設立し、今日まで引っ張ってきた。

    「地元の皆さんにこの水の大切さを理解してもらい、もっともっと活動の輪を広げたい」と、次のシンポジウムの仕込みもすでに始まっているそうだ。会津の自然、そして財産である「水」に感謝し、それを地域の未来に直結させるために活動してきた軌跡。その生きた言葉を直接聴かせていただき、私自身、胸が熱くなると同時に、これ以上ない学びの機会をいただいたと感謝の念でいっぱいになった 。

    ……と、真面目な話はここまで(笑)。

    美味しいお酒を酌み交わし

    その夜は、お楽しみの大和川酒蔵さんの最高に美味いお酒を囲む時間だ 。彌右衛門さんはもちろん、大和川酒蔵の皆さん、会津電力の磯部さん、プロジェクト会津の中山さんも交えて、車座になって盃を酌み交わした 。会津の極上の銘酒のおかげで、心の壁なんて一瞬で溶けてしまい、笑いと熱い議論が絶えない、本当に楽しい、最高のひと時を過ごすことができた 。

    最後になりますが、今回の訪問で家族のように温かく迎え、お世話してくださった彌右衛門さんをはじめ、出会ったすべての皆さんに心からの感謝を捧げて、この筆をおくことにします。

    会津、本当に素晴らしいところでした!ぜひ、風土産業研究所として何かご一緒させていただきたいと思います

    以上

  • 羽山信宏のつれづれなる風土産業記  その4

    共に育ち、風土を拓く――「指示待ち」の時代を超えて

    マツダでの「SKYACTIV」という奇跡に近い開発経験は、私の中で一つの確信に変わりました。そして今、私はその成功体験の舞台を、自動車産業から「地域創生」という広大なフィールドへと移そうとしています。締めくくりとして、製造業の歩みとこれからの社会、そして「風土産業」と「共育(ともいく)」への想いを綴ります。

     かつて日本の製造業が世界を席巻した背景には、1970年代から徹底された「手順化」と「標準化」がありました。規律を重んじ、教えられたことを正確に実行する。その真面目さと協調性が、日本流の効率化を支え、高品質なものづくりを実現したのです。

    この社会構造は、教育のあり方にも色濃く反映されました。「教える先生」と「教えられる生徒」という明確な境界線。偏差値という画一的な物差し。企業に入れば「リーダー」と「フォロワー」というピラミッド構造の中で、上司の指示を完遂することが最大の成果とされました。追いつけ、追い越せと背中を追う時代において、それは最も効率的なシステムだったのかもしれません。

    しかし、いざ先頭に立ち、追うべき背中がなくなったとき、私たちは立ち止まってしまいました。

    効率を極めた先に何があるのか。今、私たちが真に求められているのは、単なる改善ではなく「新しい価値の創造」ではないでしょうか。

    新しい価値とは、画一的な組織からは生まれません。異なる価値観を持つ人々が本音で議論し、思考を深める中で、まだ誰も気づいていない世界を形にしていく。そのプロセスそのものが、価値創造の源泉なのです。

    ここで問われるのは、知識の量や経験の長さではありません。持っている知識をどう編み直し、昇華させるか。そして、それを成し遂げるためのエネルギーをいかにして生み出すか、という点に尽きます。

    一人ひとりが主体性を持ち、「何かを成し遂げたい」という強い意志をぶつけ合う。そこには、役割としての「社長」や「部長」はあっても、人間としての上下関係はありません。お互いに学び、刺激し合い、共に高まっていく。この「共育(ともいく)」の関係こそが、集団の力を最大化させるのです。

    私は、この「共育」の精神を、地域創生の核となる「風土産業」に実装したいと考えています。

    その土地にしかない歴史、風土、そして人。それらに立脚した産業を興すとき、従来の古いピラミッド組織は必要ありません。目指すのは、関わるすべての人々が主役となる「小さな共同体」です。

    かつてエンジンの内部現象を可視化し、エンジニアたちが本来の喜びを取り戻したように、地域の可能性を見える化し、共に汗をかく仲間を増やす。その共同体が活性化し、成長していくための栄養素こそが、共に育ちたいと願う「共育」のエネルギーであると私は信じています。

    効率を超えた先にある、人間味あふれる産業の形。風土に根ざし、人が輝く未来を、私はこの「小さな共同体」から創り出していきます。

  • 羽山信宏のつれづれなる風土産業記  その3(3)

    3.3 俯瞰と無知の自覚――未来を創る「モデル」の力

    技術開発の最前線で私が痛感したのは、「部分の最適化」をいくら積み上げても、けっして「全体の革新」には至らないという冷厳な事実である。

    エンジニアは、往々にして自分の担当する小さな部品や特定の性能に没頭し、その「殻」に閉じこもってしまいがちだ。しかし、世界一のエンジンという巨大なパズルを完成させるには、まず全員が同じ「完成図」を俯瞰していなければならない。今、自分たちが挑んでいる技術は、エンジンの基本機能であるエネルギー変換のどの部分を担い、全体の理想状態にどう寄与するのか。

    この「全体俯瞰」の視点こそが、バラバラだった個々のエネルギーを一つの巨大なうねりへと変える。

    そして、俯瞰と同時に重要だったのが、「何が分からないのか、何を知らないのか」を明確にするという勇気である。

    従来の経験則に頼る開発では、ベテランの「勘」や「度胸」で曖昧に片付けられていた領域があった。しかし、限界を突破するためには「なんとなく」を許さない。なぜ燃焼が不安定になるのか、なぜそこで熱が逃げるのか。分かっていない事象を、一つひとつ白日の下に晒し、「分からない」という事実をチームの共有財産にする。そこからすべてが始まった。

    この「無知」を「知」へと変えるための強力な武器が、モデルベース開発(MBD)であった。

    エンジン内部で起きる目に見えない現象を、物理法則に基づいた数式やモデルへと落とし込んでいく。このプロセスにおいて、モデルは単なる計算ツールではない。それは、エンジニアたちが共通の言語で語り合うための「対話のプラットフォーム」となった。

    「分からないこと」をモデル化しようと格闘する中で、本質的な課題が浮き彫りになり、進むべき道が照らし出される。試作と実験を繰り返す「手探りの開発」から、理論に基づき結果を予測する「確信の開発」へ。この転換が、開発のスピードと精度を劇的に引き上げたのである。

    振り返れば、リーダーの役割とは、進むべき方向を事細かに命令することではなかった。現在地(厳しい経営状況)を正しく共有し、理想の姿(エネルギー変換の極致)を俯瞰させ、何が課題か(分からないこと)を共通言語化する。この三つが揃ったとき、組織は自律的に動き出し、個人の能力は限界を超えて発揮される。

    産業人として私が経験したSKYACTIVの奇跡は、特定の天才が成し遂げたものではない。自分たちの置かれた状況を正しく認識し、本質に向かって心を一つにしたとき、どんな困難な壁も、それは新たな「成長曲線」の始まりに過ぎないことを、私たちは証明したのである。

  • 羽山信宏のつれづれなる風土産業記  その3(2)

    3.2納得できる腹に落ちした目標――「改善」から脱却と「本質」への飛躍へ

    私はマツダに入社して以来、約35年にわたってエンジンの性能開発に心血を注いできた。そのうちの25年間、私が信じて疑わなかったエンジニアの使命とは、掲げられた定量的な目標値を一つひとつ着実にクリアしていくことだった。

    「燃費を従来モデルより5%改善せよ」「最高出力を10馬力向上させろ」

    当時の自動車業界において、これらは絶対的な「正解」だった。日本のエンジニアたちは、この愚直なまでの改善努力を積み重ねることで、日本の自動車技術を性能、信頼性、品質のすべてにおいて世界一の座へと押し上げた。そのたゆまぬ努力には、今も心から敬意を表したい。

    しかし、戦後から50年以上も続いてきたこの「改善」のサイクルは、ある壁に突き当たっていた。

    技術には、成熟度を示す「成長曲線」がある。従来のやり方の延長線上では、すでに改善の余白はほとんど残されていない。いわば、乾いた雑巾をさらに絞るような状況だ。それでもなお、多くのエンジニアがかつての成功体験に縛られ、従来の思考回路から抜け出せずにいた。

    そこで私は、SKYACTIV ENGINEの開発にあたり、これまでの「目標」のあり方を根底から見直すことにした。

    武田,羽山,岡,山崎:「エンジニアとしての考え方と共育の考え方を重ね合わせ新しいワクワク基盤を創ることへの挑戦」,日本機械学会年次フォーム2022,2022年9月

    私たちが立ち戻ったのは、性能値の改善という「結果」ではなく、エンジンという機械の「原理原則」だった。

    エンジンとは本来、空気と燃料という「化学エネルギー」を取り込み、燃焼によって「熱エネルギー」に変え、それをピストンの上下運動という「運動エネルギー」へと変換する装置である。ならば、理想のエンジン、すなわち「世界一のエンジン」とは、このエネルギー変換の効率を、物理的な限界(理想状態)まで限りなく近づけたもののことではないか。

    この仮説に基づき、私たちは性能項目を追うのをやめ、「エネルギー変換率」そのものに焦点を絞った。何がエネルギーの損失を招いているのか、その阻害要因を解明し、コントロールする。これこそが、真の技術開発だと定義したのである。

    当初、現場のエンジニアたちには戸惑いもあった。これまでは改善アイデアを出し、試作しては実験するという「手」を動かす開発が主流だったからだ。目に見えないエンジン内部の現象を解析し、数式やモデルとして組み立てるというアプローチは、あまりに抽象的に見えたのだろう。

    しかし、いざ手を付けてみると、現場の空気は一変した。 これまでブラックボックスだった現象が次々と可視化され、理論が裏付けられていく。そのプロセスは、エンジニアたちが忘れていた「未知を解き明かす」という技術開発本来の楽しさ、そして喜びを呼び覚ました。

    「自分たちは今、成長曲線のどの地点にいて、次にどの山に登るべきか」

    現状を客観的に見つめ直し、物理的な本質に基づいた共通の目標を持てたこと。それが、単なる「改善」を超えて、新たな地平へと踏み出す大きな一歩となったのである。